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そして帰国…

Posted satoko :2015.05.23
IMG_7676.jpg


わたしだ。

飛行機なう。
テキサスからの帰り道!
長期のフライトに耐えうるために、
ムチウチになった人みたいなやつを首に付けながら、これを書いています。
(ネックピローや)


まずはあの、最近さ、
久しく日記を書かなくてその、
ごめんねというか、あの、
その、すいませんでしたー!!!!
(スライディングからのガバッと土下座)
(首にはネックピロー)


なんだかここんとこいろいろあって、
気持ちの整理整頓が出来なくて。
いいことも、悪いことも!


まずは、
ここにちょろちょろ書いた事もある、
父方の祖母が先日永眠した事。

タエコおばあちゃん、通称タエバチ。
大阪在住。


元気が売りの彼女だったけど、
寄る年波で少しボケだしたので、
有料老人ホームに入って、
少し経った頃、肺ガンになって、
末期だと宣告された。

たまたま関西付近に居たわたしと父が、慌てて訪ねていくと、
呼吸器を付けて寝そべっていたのに、
元気になり、笑って、
楽しい会話をして、
大好きな煙草を吸って、
出された食事も平らげて、
わたしたちは、
なんだ、元気じゃん!
なんて安心して東京に帰ってきた。


そしたらやっぱりそれが最後の晩餐というやつで、
その日を最後に食事や立っていることが出来なくなり、
次の週には危篤。

慌てて家族全員で集まったら、
また急に、意識が戻り会話も出来て、
一緒に美空ひばりを歌って、
全員に笑顔を見せてくれた。

それからすぐに、
忙しい父が唯一喪主を出来る日程で亡くなった。
ひとが居なくなった一瞬を突いて亡くなった。
誰にも看取らせなかった。


83歳。
彼女のポテンシャルを考えたら確実にもっと生きられたと思うけど、
ほとんどの人間の死因は「退屈」である、と、誰かから聞いた。
生きる事に飽きたのかも知れない。

生前は破天荒でファンキーで、
元気なおばあちゃんだった。
前にも書いたけど、すごい伝説をいっぱい作ってくれた。


わたしが小学生の時、二重まぶたに整形したり、
(生まれて初めて整形とは何か知った)
眉毛書くの面倒くさいと言って、
刺青で眉毛入れちゃったり、
学生の時には、わたしリレーの選手とかでめちゃ足速かった筈なのに、
ガチで走ってタエバチに一度も勝てなかった。

普通、学生が祖母に負けるかい?笑
まじで運動神経よかった。


大阪までタエバチを訪ねる時、
うち横浜だからいつも崎陽軒のシウマイをお土産に買って行ってたんだけど、
いつもシウマイだから、たまには何か欲しいもの聞いてみようかとなって、聞いてみたら、

何でもええけど、シウマイだけは要らんわ。

と言われたり。
なんでシウマイ嫌いって早く言わへんねん!
お母さんが毎年買ってきた10数年分のシウマイ返せや!笑


年金暮らしになったら公団住宅の抽選に一発で当たって、
すごく素敵な2LDKの部屋にあり得ない安い家賃で悠々自適の生活。


記憶があやふやになり始めてから入った有料老人ホームは、
スタッフのみなさんも他の住民もいい人たちで、
ごはんも美味しいしカラオケルーム完備で、イベントも満載。

わたしも老後はここがいい!
と思うほど大切に介護されながら、
それでもやっぱり、
忘れていくことって辛いのかと思ったけど、
全然楽しそうで、
わすれるねん。
って、ずっと笑ってて、
最期も、自分でトイレに行けないくらいになったのはたった1週間で、
娘と息子である叔母と父の事だけは、死ぬまで忘れなかった。

わたしのこともギリギリまで憶えててくれた。
普通のおばあちゃんは孫に順位なんてつけたりしないけど、
タエバチは、5人いる孫の中で、
オフィシャルで、
サトコが一番可愛い。
と言っていて、笑、
みんなから反感を買っていた。
うちの妹は、
孫に順位つけんなや!グレるやろ!
とガチで怒っていた。笑


なぜか最近たくさん関西に行く仕事が増えてたのは、タエバチに呼ばれていたのかも知れない。


最期の言葉は、

ありがとう、もうかえり。

だった。


歌がとても上手かった。
ハーモニカも上手かった。
けど左右逆に吹いてた。
編み物も上手かったけど、左右逆に編んでた。
玄関の靴はいつもきちんと揃えられてたけど、それも前後が逆だった。笑
ものもらいになった時は、
ものもらいになったのと逆の目に眼帯を付けてた。笑
阪神大震災の時は、
食器棚が倒れてきてヒタイがパックリ割れたのを、
タイガーバームで治してた。
(めっちゃしみるやろ、それ!
顔面にタイガーバームはきつすぎるやろ!)

息子にご存知、「孝三(こうぞう)」と名付けたのに、
発音出来ず、「こうどう」と呼んでいたし、父の持ち物に、
「菅沼こうどう」と書いていた。

綺麗好きで、運動神経が良くて、
言葉遣いが自由で、
お世辞が言えず、
言い方がちょいちょい間違ってて、
手紙をくれたら必ずわたしの名前の漢字も間違ってて、
(一番可愛いとか言ってるくせに、漢字二文字すら覚える気ないんかーい!)

象の絵を描いて、「どう」と書いていたり、雑巾に「どうきん」と書いていたり…!

ぞ、と、ど、があべこべになってしまうのに、何故息子コウゾウにしちゃったのー!ってか、
大体何でも、逆かあべこべで、
へんてこりんでツッコミ所満載だった。
カップラーメンにお湯を入れただけでまずくなるほど、
料理が下手だった。

だけど、
一度も彼女から他人の悪口は聞かなかった。
子どもの頃からひとりの人間として扱ってくれた。
いつでも意見を聞いてくれて、可愛がってくれて、抱きしめてくれた。
大好きなおばあちゃんだった。


そんなタエバチの人生を一言で表すと、
煙草。

とても煙草がすきな人だった。
遺影でまで煙草吸ってた。
肺ガンで死んだのは絶対に煙草が原因だと思う。


でも、煙草よりも彼女の孤独を癒すような、側にいられるひとも物もなかった。

現実、息子も娘も家族と仕事があって、いつもは一緒にいられない。
孫には順位なんてつけちゃったせいであんまりかまってもらえない。笑

それでも、
一緒に住むかと聞かれた時、
彼女は、煩わしく思われるより、
凛とした淋しさと自由を選んだ。

シウマイは要らなかった。


まだ老人ホームに入る前にタエバチを訪ねた時、
年を取るってどんな感じ?
って聞いた。

年を取ったら、
なんにも面白くないしおいしくないんだって。
好きな物もだんだん飽きるんだって。
大事な物も意味がなくなるんだって。
何事もそれほどでもないと悟るんだって。
時間が長く感じるんだって。
ひとりで何を食べてもおいしくないし、
何をしても面白くないし、
孤独だし、
でも、友だちや家族も深く関われば面倒だし、
そんな中、
煙草だけは美味しいんだって。

煙草吸ってたら幸せだって言ってた。


わたしも、去年まで吸ってたからよくわかる。

ひとりでごはんはおいしくないけど、
煙草は美味しいもんなぁ。


変な話、
わたしもタエバチと同じくらい煙草好きで、
一生やめる気もなかった。

孤独だったから、煙草おいしいんだよなぁ。
それはもう本当に。

やめたのは、
健康な身体で居て欲しいと、好きな男に頼まれたので、
まーやめようかな、と思って、やめた。笑

でもさ、
わたしが仮にそれをタエバチにしてみたところで、意味がまったく違う。

もし一番近い相手なら、
毎日一緒にいて煙草並に1分1秒を癒す覚悟があるから頼めるけど、
わたしは物理的に、
彼女と毎日一緒にいられない。
煙草並に彼女の孤独を癒せるものを与えられないのに、奪う事は出来なかった。


孤独で自由なのと、
愛に溢れて我慢すること。

独身のひとの淋しさと、
家庭を持つひとの窮屈さ。

ほぼ同じなのかなぁ。

独り身からほとばしる自由と孤独の美しさ、
カップルからほとばしる愛する喜び。


どちらも同じくらい、
いいところと悪いところがあって、
決めるのはその人間で、
人それぞれ違うんだから、
それでいいんだろう、
としか、今は言えない。


有益な情報があったとして、
知ってるひとの方が幸せなわけじゃないしね。

煙草吸わない方が健康だとも限らない。


だって情報も幸せもストレスも、
ひとつじゃないし、
本当に人っていろいろいるもの。


近道してお得に生きるより、まっすぐ歩きたいひともいる。

明るい道が好きなひとも、
暗い道が好きなひともいる。

確証が欲しいひとがいる。

正確に知りたくないひとがいる。

目を見開くひとが、
目をそらすひとが、

見たくても見えないひとが、
見えてるのに見ようとしないひとが、

兎に角たくさんのひとがいる。


だから、誰にも、
タエバチが不幸せだったとは言われたくない。

ずっと側にはいられなかったけど、
一番近かった人間として、
彼女は幸せだったと何故だかわかるんだ。

毎日面倒を見てた叔母も、
うちの家族も、
遺影には、煙草を吸っている写真を選んだ。

不謹慎と感じるひとも当然いるとして、
家族葬だから、誰にも迷惑はかかってない。

本当に迷惑をかけるのは、
こうでなくてはならないと、他人に目を光らせてる奴だな、と思う。

自分がそうなっちゃう時もある。

気をつけねばならないなー。


余談だけど、
葬儀で、焼かれてお骨が出てきた時、
5歳の姪っ子は、
「…!骨がつながってない!」
と驚いていた。笑
ホネホネロックみたいなしゃれこうべが出てくると思ったらしい。

棺を心配そうに覗いて、
「鼻塞がれて苦しくないの?
閉じ込められてトイレはどうするの?」
と聞いてきた。

死ぬって事、わかったつもりになってたけど、
やっぱり、まだまだわからない。

子どもの頃、
死ぬって事が、全くわからなかった頃より、もっとわからなくなっているのかも知れない。

姪っ子の言葉でみんな笑って泣いた。

肝心の喪主である父は、
動物皮や肩にかけるタイプのバッグは死を彷彿とさせるので、
葬儀では避けましょうと言われているのに、
クロコダイルのカバンを斜めに肩にかけて、骨壷と箸をごはん食べるみたいに持って、お骨が出てくるのを待っていた。

母に死なれて、あれだけ自然体の人間はそういないだろうな。
姪っ子と同じくらいに純粋で天然でさ。

そんなあの人が泣いてるのは初めて見た。


その1.2週間後には結婚式して、
その1.2ヶ月後にはふぁじこんの活動休止を発表して、
この12年ひとまわり、
当然のように握りしめてたものから手を放す。
新たに手を繋ぐ。


壊さないように、
壊さないようにしてたって、
壊れちゃうのはあっけないくらい一瞬で、

汚さないようにしてたって、
破けないようにしてたって、
袖を通したら覚悟を決めなきゃならない。

注意深く夢中になる

って、不可能っぽいけどやってみてる。

大事にとっておいたら、
大事にできないから。


兎に角、
ここから先の道は、まっさらな新雪の道だ。

今まで靴をぐちゃぐちゃにしながら4人で歩いてきた道の先を照らすために、ここからしばらく、ひとりで歩くわけだ。

幸い応援してくれるみんながいる。
胸にはやりたい事が渦巻いてる。


いっちょがんばってみましょうか。


てな感じで、なんて長い日記を書いてしまったの、わたし!
ネックピローつけたまま!


日記というより、
自分の気持ちの整理だにゃー(´Д` )
読まないで、お願い。笑
(なんで書いたの、お前)


でも本当、日頃、
旅が仕事だから休みくらいどこにも行きたくないんだけど、
厳しい生活を強いていかないと今まで以上は望めない、なんつって、
行きたくない時に遠くまで行ってみて、自分探しじゃないけど、
少し見えたものがあるよ。

兎に角、
みんなに届くようにするだけですわい!


では、恐ろしいほど長い日記はここまでということで。
また書くおー。
(もうやめなー。)


サトコ・オブ・ライフ・イズ・ジャーニー


写真はテキサスで料理したウサギです。
お尻からセージとタイムがはみ出てまふ。